
《ロシアのとある裁判所で、センセーショナルな殺人事件に結論を下す瞬間が近づいていた。被告人はチェチェンの少年、ロシア軍将校だった養父を殺害した罪で第一級殺人の罪に問われていた。検察は最高刑を求刑。有罪となれば一生、刑務所に拘束される運命だ。3日間にわたる審議も終了し、市民から選ばれた12人の陪審員による評決を待つばかりとなった・・・。 証拠もある、目撃証言もある。少年は罪を認めてはいないものの「有罪」か「無罪」かを決めるには十分すぎる情報が揃っていた。挙手による簡単な方法でその判断を下す話になるのだが、陪審員の1人が 結論を出すには早すぎるのではないかと疑問を呈し、手を挙げて終わりでいいのかと、男たちに問いただした。これがきっかけで12人の陪審員達が裁判にのめりこんでいいく。
少年は「有罪」なのか?「無罪」なのか?あなたならどう裁きますか?》(上記ホームページより)
もともとは1957年にアメリカでつくられた(シドニー・ルメット監督)のをちょうど50年後にロシアでリメイクしたもの。
もともとのを観ていないのですが、全員一致するまで論議するという「民主主義」のもつ力を描き出すという点では、2つの作品は共通してるようです。
民主主義は、めんどくさく、時間がかかるけれども、衆知を集めることによって真実へと接近してゆく。
しかし、ミハルコフ版は、そこにとどまっていない。論議するだけの「民主主義」が無力に転ずる姿を描いていて、よりいっそう深い(んじゃないかな。前の観てないから…)。
論議はなんのためにするのか。それは行動(なにをどうやってするのか)を選びだすためであって、そこから切り離された論議は、たとえそこで得られた結論が正しくとも、無に等しくなる。反対物に転化するのです。
せりふの中にもでてきますが、ソ連時代からの負の経験が生きていんですね。論議はするが何もすすまない、変わらない、ということをいやというほと繰り返してきた。
チェチェン紛争(ソ連・ロシアによるチェチェンへの干渉・侵略)を背景にしていることが、さらにこの映画を重く、深いものにしています。戦争は、問答無用の行き着く先でもあり、平和は民主主義を必要としている。その民主主義はいかなるものであるべきなのか。
私たちの「主権者力」を磨く、すばらしい映画です。
